2013年6月7日金曜日

富山の薬売り(越中売薬)の由来は江戸城の事件から

 富山と聞けば、「越中売薬」「薬売り」と言われるほど「富山の薬売り」は有名です。
 今は配置薬を見かけることは少なくなりましたが、私も子供の頃、実家には置き薬があって、売薬さんがたまに訪問してくれていました。

 越中売薬には、三百年以上の歴史があります。
 交通が不便な江戸時代から、薬売りは全国の津々浦々を歩いて回り、貧富の差を問わず、各家庭に薬を配置し続けてきました。
 しかし、最初から富山が薬の産地だった訳ではありません。その売薬の始まり、由来は一体何だったのか。

 それは、元禄三年(1690)12月に江戸城で起きた小さな事件でした。


 江戸城内で、岩代三春(現在の福島県)の藩主・秋田輝季が突然激しい腹痛を訴えました。たまたまそこに、富山藩主・前田正甫が居合わせました。


 前田正甫は、印籠に入れていた丸薬・反魂丹を白湯と共に輝季に飲ませたところ、たちまちに腹痛はおさまりました。


 その経緯を周りで見ていた諸大名は、反魂丹の効き目に驚き「ぜひ我が藩でも売ってくれないか」と前田に頼みます。
 これが、越中売薬のはじまり物語と言われます。


 この話には、前置きがあって、そもそもなぜ前田正甫が丸薬を持ち歩いていたのか、ということがあります。
 もともと前田正甫は持病があり、それが縁で薬に大変関心を持ち、自分で薬を研究するほどだったと言われます。
 自分で薬を作ったといえば、徳川家康が思い出されますね。家康は相当の薬オタクとでも言うべきか、自ら作った薬で返って死期を早めたとも言われますが、特に前田正甫は備前の万代常閑が作った反魂丹を気に入り、彼を富山に呼び寄せて、城下の薬種商の松井屋源右衛門に製造を命じました。

 このようなことがあり、自身の病気回復の為に製薬に関心を持ち、実際に回復させた経験を持つ前田正甫だったからこそ、江戸城で秋田輝季が腹痛で苦しんでいる状況からとっさの判断ができたのでしょう。


 ただ、この時に売薬の約束をしたのは数藩にすぎませんでした。
 ですが、正甫はこの縁を大切にし、反魂丹だけでなく、熊胆丸や奇応丸など数種の薬を売りに行かせました。
 その後何十年もかけて、富山藩は売薬を全国に広めていきます。


 売薬とは関係ないですが、前田正甫は徳川光圀と同じ時代で、かの時代劇ドラマ『水戸黄門』には度々登場しているキャラクターです。

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